ゴミ捨て場

脳がショートしたときに使います

我慢、諦め。そして爆発。

 

 人間が何かに迷うとき、大抵自分の中ではどちらか決まっていたりするもので、大きな確信が欲しいだけなのです。

 

 「ピンクがいい」『似合わないから黒にしなよ』

 「フリフリ着たい」『ブスだからやめなよ』

 「歌手になりたい」『お前歌下手だから無理』

 

 

 わたしの人生は、今まで自分の欲求が通ったことが無かった。何色が良いかなー、そんな事すら悩んだことは無かった。

 

 そんなわたしが人生で一番頭を悩ませた出会いがあった。それは母親の彼氏。わたしは母親の恋人が苦手だ。彼は刃物を持った裸の王様だからだ。強いのは自分じゃなくて鋭利な〈それ〉なのに、無差別に振り回して傷つけて偉くなった気でいるから。

 

 母は父と婚姻関係を続けているにも関わらず、そんな男と付き合っていた。

 わたしは優し過ぎてお人好しだけど、わたしや弟の為に強くかっこよくいようとしてくれる父が大好きだった。だってオムライスは苦手なのに、わたしが好きだから食卓に出てきても文句も言わないで食べちゃう人だもん。

 

 だからこそ母の裏切りを許せなかった。でも、母は理不尽だから、自分を守る為に平気で周りを傷つける。そんな母にわたしは何も言いたくなくて、“そうなんだ”とだけ返した。肯定されたと勘違いしたのか、その日以降わたしが高校時代の彼の話をする度、自分も惚気話をしようとしてきた。嫌悪感に包まれた毎日だった。

 

 それから母は父と離婚し、夜の仕事を本格的に始めた日から更に地獄が始まる。あの人は週末、お昼までお酒を飲み酔っ払って帰ってくると、外でも家でも何か気に入らないことがある度に、テーブルを蹴ったりものを投げるなど散々暴れて、死ねとかブスとか暴言を吐いても寝て起きたら忘れてしまって、次の日も同じ事を繰り返す。

 

 一番の被害者は弟だ。あるときは彼が引きつけを起こすまで怒鳴ったり、あるときは彼の上に跨り、彼が逃げようと体を動かすと騎乗位のように腰を動かしていた事もあった。

 

  『次は何をされるの』

 

 わたしはとにかく週末が嫌いだった。怖かった。

 

 

 ここで一つ迷いが生じる。

 

 “わたしはこのまま、この人の元に居て良いのだろうか”と。

 

 何かしたくとも“無理” “出来ない” “おかしい”と否定され続ける人生。そのくせ良いように使われ続ける。この親に縛られていて、わたしは幸せになれるの?

 

 今まで気づかないフリをしてきた自身の感情に、今更気づいてしまった。

 大人になってしまうと動くことが怖くなる。変化に敏感になってしまい、そのままぬるま湯に居座り続けてしまう。だが、わたしが幸せになるには母とは離れなければならないと思った。

 

 ただ、そんな頭と股の緩い母親だろうが、わたしにとっては母で、共に生きてきた弟はわたしにとってかけがえのない存在で。それは揺るぎない事実だったから、母の為に働き家事をこなしながら弟の面倒を見続けてきた。どんなに人生にくじけて死にたくなっても、生きた。もう動かない心と体を引きずってでも生きた。

 

 変化も楽しみもない、そんな平坦な毎日で起きた出来事。

 もうすぐ二十歳のお誕生日、という日だった。母親の彼氏にディナーに連れて行かれた。わたしが大人になってそういう機会があったときに困らないようにだそうだ。おしゃれな空間が苦手なわたしには“このまま消えてしまいたい”と思うほど苦痛な時間だったが、料理はとても美味しかった。

 

 弟も楽しそうだったし、例え母の彼を苦手だとしても着いてきてよかったかなぁ、なんて思いながら全世界に繋がる手元の小さな端末を眺めていると、母も男も楽しそうに車窓から見えた夜景を“綺麗だねー”と言っていた。その声に釣られたわたしは、目線をその夜景に移した。

 

 綺麗?違う。わたしの中の“奇麗”はこんなんじゃない。

 

 わたしはあの平穏な日々が好きだった。優しくてかっこいい父が居て、父と弟が大好きな母が居て、わたしを好きで居てくれるかわいい弟が居て。

 どんなに母から邪険に扱われようが都合良く使われようが、狭い家で食卓を囲んで、春になったらみんなでベランダに裸足で出てって見た用水路の桜並木のほうが・・・なんて閉じ込めていた感情が爆発した。

 

 心の中に生じていた小さなもやもやという風船が、どんどんと膨らんでいく。

 

 母の恋人、彼をキッドと呼ぼう。キッドはとても我が儘だった。わたしたちは人形の様に扱われた。

 

 わたしは着せ替え人形、黒いお洋服が好きなわたしは毎日全身真っ黒だったが、キッドはそれを許さず、わたしが別の趣味等に使おうと思って稼いだお金は、彼の勧めるがまま、着たくも無いお洋服へと変わっていった。容姿を馬鹿にされたり、胸や体つきなどをジロジロ見られ、“お母さんより大きい”なんてからかわれたりもした。

 

 母は何かにつけて別れると言われストレスによって手が四六時中震えるようになり、彼に愛されようと男の住む家へ毎日通い、とうとうわたしたちの家には帰ってこなくなった。弟は子供らしくいることを奪われ、彼の思うように動かなければ、どこであろうが大声で怒鳴られた。キッドの飼っているフクロモモンガのメイちゃんは噛んだり逃げたりすれば水道で水攻めにあった。

 

  『彼の人形遊びには付き合いきれない』

 

 そう思い、自分のため、家族のため、そして母のため。わたしは何度も「あの人はやめたほうがいい」と訴えたが、あの女は「自分だって女だ」「お母さんは幸せになっちゃいけないの」等と言ったり泣き出したり。最後には死にたいと言い出す。・・・ああ、そうだったな。そういや今までもこんな感じだった。母にわたしの言葉が通じた事は無かったもんなあ。

 

 確かに母の言うとおり、あの人も一人の人間だ。幸せになってくれて構わない。わたしや弟が彼女の子で無ければ、どんな人生を歩んで頂こうが自由だ。だけど、人間である前にわたし達の母親である事をすっかり忘れてしまっているのだ。

 

 母もキッドも、二人して毒で出来た人間。わたしの心には決して見向きもしてくれなかった。オーバードーズをして苦しさで床をのたうち回っていても、当てつけにリストカットしようが泣きわめこうが、彼女にとって無意味な叫びには耳を貸して貰えなかった。

 

 わたしはそのまま精神を病み、疾患を患った。そのせいか、大好きだったお仕事が手に着かなくなりミスが増えた。仕事中に泣く事なんてざらにあった。職場の先輩達とも上手に会話が出来なくなってしまった。強くいられなかったわたしが悪かった。

 

 母を母と見れなくなった日。それは、母が弟に対して死ねだの、わたしに「弟のこと殺す」と脅された日からだった。

 今まで母と共に生きようか悩んでいた気持ちは晴れ、母の元から逃げることを選んだ。

 

 どうやって生きていこう、弟の事はどうしよう、区に相談すべきだろうか、など足りない頭で毎日いろんな事を考えた。毎日。その日も次の日は仕事だった為、そろそろ眠ろうとしていた22時半頃、自宅のインターホンが鳴った。

 

 怖い人じゃないだろうか。恐る恐るドアを開けると、警察を名乗る男性二人が扉の先に立っていた。

 

 男は母を呼ぶ。わたしたちはその様子を陰から見ていた。二人は母とキッドから話を聞きたいらしい。どうやらその日、母とキッド、弟が出かけた先で、キッドが車中で何度も弟に暴力を振るったらしく、見かねた通りすがりの人が通報したようだ。通報されるのはこれで二回目だった。母はみるみる機嫌が悪くなり、キッドの住所や携帯番号、居場所を聞かれても知らない・答えたくないの一点張りだった。

 

 埒が明かないと思ったのだろうか、刑事さん達にわたしと弟が呼ばれて事情聴取を受けた。家を出る前、母親に「変な事言うんじゃねえぞ」と釘を刺された。

 

 人生というのは迷いと決断の連続だ。わたしはきちんと話をしようか、母の言いなりになるか、迷いながら事情聴取?を受けた。

 

 答えたって、きっと助けてなんかくれないよなあ。

 

 わたしは母の言うことを聞いた。

 

 わたしはただただ母の悪態や、夜遅い時間にこちらまで来させてしまった事を謝った。「いいんですよ、みんなあんな感じですから」なんて笑って言ってくれたけど、申し訳なくてしょうがなかった。

 

 聞かれることに答えた後は、弟は服をめくられて痣が無いか見られた。わたしは女であり刑事さんは男性という事もあり、ズボンの裾やTシャツの袖をめくるだけで終わった。もっとちゃんと見たほうが良かったんじゃない?なんてね。

 

 聴取が終わり、家に戻る。警察の方達が帰った後、母はキッドと電話をしていた。すると、もうすぐ眠りにつく、というところで母に起こされる。

 

 「キッドがわたしと話したい」と言ってきた。

 

 「俺は弟のこと叩いたよ。五、六発叩いた。でも元はと言えば自分が悪いんだろ、お前の母ちゃんとお前がちゃんとしてないから弟がそんなんなんだろ。」と言われた。わたしはなんでそんな事を言われなきゃけないのか、普通に生きてきただけなのになんでこんな事になってるんだ、そう思うと悔しくて、だけど負けたくないから泣くのを我慢したら同時にどす黒い感情が湧いてしまって。でも、実行してしまったらきっと弟は悲しむから。自分が叩いといて何言ってんの。わたし明日も仕事だから寝る。とだけ言って母に携帯を返した。

 

 それから十二月。わたしは退職した。悩みに悩んで、何回もチームリーダーやもっと上の人とも1on1を重ねた。だけど、これ以上仕事のミスや、円滑なコミュニケーションが取れないことで、誰にも迷惑をかけたくないという事、そして、わたし自身、家の事や仕事、恋愛など、抱えるものが多すぎて何も持てなくなってしまったのだ。

 

 わたしは思い切ってキッドのLINEをブロックした。もう二度と会う気も話す気も無かったからだ。だけど、急に実家の借家を引越す事が決まり、キッドと一緒に住むという話になってしまった。それを聞いた瞬間、襲われたら?暴力振るわれたら?いろんな思いが駆け巡り、母を説得しようとしたがここでも聞き入れてはくれなかった。

 

 それからも、お正月に在宅のお仕事が入ってしまいキッドの親戚にご挨拶が行けなかった時も、家族になる気が無いなら別れると言われた。児童相談所から連絡があったときも母親は話を流し適当な返事をしていて、この人はわたしたちを幸せにはしてくれないと察した。

 

 何かを得るためには何かを捨てなければいけない。わたしは散々迷った挙句、親戚に連絡をし、引き取ってもらった。 

 

 “親から逃げる”

 

 わたしの人生の中で初めて自分で下した決断だった。

 

 何度も何度も止められた。一年だけでも一緒に、一ヶ月でも、母はキッドの機嫌を取りたいのか何回も説得されたけれど、わたしの気持ちは揺るがなかった。母に殴りかかったのも初めてだった。

 

 

 自分の意見を通して気づいたこと。それは、ひとつの幸せになる方法について。

 今まで自分が我慢することで幸せになれると信じていた。でも、それは人生を諦めていただけだったのかもしれない。

 

 虐待は連鎖する。わたしも母のような大人になってしまうんだろうか、と思うと子供を持つことも誰かを愛すことも、怖くてたまらない。こんな薄汚れたわたしでも、いつか誰かに愛される日が来るんでしょうか。今はまだ分からないけれど、少しずつ克服できたらいいな。

 

 

 わたしは今無職です。詳しくは就職中ですが、中卒で人生経験も浅いのでなかなか雇っては貰えていないけれど、いずれは正社員になって、安定した収入を得られるよう、就職活動を頑張っています。

 

 何故って、愛する事が怖くても守りたい大事な人がいるから。

 

 十歳離れた弟と一緒に暮らしたい。一人の人間を育てるということがどれだけ大変か。それが簡単なことじゃない事は重々承知している。だけど、また二人でちょっと崩れたオムライスを食べて、おいしいって笑う日を取り戻したい。

 わたしじゃきっと無理だ、そう思って諦めたけれど、自分が自分を否定する事だけは辞めようと決めた。

 

 弟はADHDという病気で、実の母から否定的な扱いを受けています。わたしにとって彼が病気か否かは正直どうでも良くて、彼が一生を終える時、一回でも多く、否定より肯定される経験のほうが多い世界であってほしいだけなのです。

 

 そして、少なからずわたしだけは、わたしが頑張ってきたことを知っています。今まで泣かせてしまった分、喜ばせてあげたいのです。そのためには一生懸命働いてお金を稼いで、という日々が必要です。きっと、それが幸せへの第一歩だから。

 

 誰かの心を満たすために生きることは苦痛だったけれど、今は自分の幸せの為に欲しいものを手に入れよう、そう決意しました。

 

 

  今はリスカ癖も着々と収まってきている。今でも傷跡は茶色く汚れていて嫌な記憶を思い出してしまうこともあるけれど、ヒステリックになって泣き叫ぶことも、ODで苦しもうとすることも無くなった。

 

 散々悩んだ結果、母の元から逃げると決めたから。

 

 

 わたしは今家を出て、別の人達の元でお世話になっている。あなたの元を離れて、わたしは生きている。

 

 今では 何色 を選ぶ行為がすごく楽しい。

 

 

#「迷い」と「決断」

 

 

 わたしの迷いは「 誰 のために 生きる 」か。

 決断は「 一生 わたし として生きる 私 」の為に。

 

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